アートを東北復興に生かしたい訳

だいぶ前友達に『ツリーハウス作りたいなあ』って漏らしたことがあった。永遠のピーターパンな私(ただの現実逃避野郎)はそんなのが好きだからだ。
どうやら私の地元東北で、ツリーハウス100個作ろう計画が実行されているらしく友達が昨日メールで教えてくれた。早速その活動している団体に早朝メールを送った。(こっちの早朝は日本の深夜なので迷惑メールである
地元一関(岩手県南)、もしくはボランティアで訪問していた気仙沼(はすでにツリーハウスが建てられていた)陸前高田市、生まれ故郷の仙台でツリーハウス作るなら是非関わらせて欲しいと。
迷惑メールに振り分けられていないことを祈るばかりである。
おもしろそう・・のぼりたい・・
私の夢の一つ、自分のアートをふんだんに取り入れた小さな宿を作ることも考えてるんだけど、震災復興に役立てるような活動として夢を現実にしたいと思ってる。震災は私には忘れられない出来事だった。
※ここからちょっと震災当時のことを長々と書くので、震災にトラウマがある方やそんな長々としたの読みたくないわっていう野暮な方(失礼)はこの記事飛ばしてください。
東日本大震災があった2011年3月11日、失恋真っ只中(関係ない)の当時の私は会議で仙台にいた。今でも忘れられない14時46分、全員のケータイからエリアメールのけたたましいアラームが鳴り、それとほぼ同時に激しい揺れが始まった。
立つこともままならない、テーブルとイスは危険なほど転がっていた。テーブルを抑えながら周りを見渡す。恐怖で顔がこわばってる女性を見て『今死ぬのかもしれない』と初めて本気で思った。なぜって特に揺れの激しかった宮城県のビルの13階にいたし、今振り返れば耐震ビルなので安全ではあるけれど、例えると窓から投げ出されるんじゃないかってほどの揺れだった。
もちろん仕事どころではないので解散を言い渡され各自が家族や友達の安否確認をする。中には沿岸に住んでた方がいて津波のニュースをワンセグで見て絶望の声をあげていた。
新幹線で仙台に来た私は帰る方法もない。3月の東北はまだ寒く、夕方には大雪が降っていた。
その日はもともとホテルを取っていて宿泊予定だったのでホテルへ行ってみるも危険だからと入ることも許されず、仙台の駅まで歩く。
停電によって何の音もなく、光もない。ただ雪がしんしんと降っている中黙々と歩く人たち。
異様な光景であった。
一緒にいた店長(当時私は携帯電話の法人営業やってた)とその友達夫婦、この人たちがいたからこそ無事に家に帰れた。
日をまたいだ12日、店長の友人たちが車で迎えに来てくれて温かい車の中に座りラジオを聴いて、初めて自分の幸運を涙が出るほど噛みしめた。正確に言うと自分だけ助かった申し訳ない気持ち。
ラジオからは被害者状況、海では遺体が打ち上げられ、まだ取り残されている子供たち、こんな寒い夜を冷たい場所で過ごさなければならないこと、津波で家族を失った人たち。
何もできずに自分だけ助かったことが自分の中で『何かしなければ』と強く思わせた。
一泊させていただいた後、地震によってボコボコになった道路を店長の友人夫婦に送っていただいた。片道通常でも3時間はかかる道、その時はおそらく5時間ほどはかかったと思う。
ガソリンもない状況の中だったので、そのご夫婦はガソリンがなくなり一時的に避難所で過ごし帰ったことを後で知った。ガソリンを必死で探して届けに行ったが既にいなかった。本当に感謝しきれない。
当時働いていた店へ無事戻り、店内の状況を見て営業はできないことを確認、地元の被害状況を確認しながら市役所へ向かった。
市役所内は静かではあったけれど皆忙しそうで、とにかく何かできることはないかと受付でボランティア、献血など聞いたがそれどころではない状況だったらしく名前と連絡先を置いて帰宅することに。
震災が起きてからちょうど24時間後帰宅。自宅で待っていた母は既に安否確認が取れていたので心配もしていなかったけれど、庭の手入れをしながら『おかえりー』と普段のノリで言われた衝撃は今でも忘れない。
それはそうで私の住んでいた舞川という地域は頑丈な地盤を持っていて、震度6強の揺れでも物干し竿が転がっただけだったらしい。どんだけ・・
家から車で10分の職場はメッチャクチャだったのに・・
東北に住むなら舞川。オススメです。(限定的すぎる
その後自分なりに必要な知識を調べてボランティアを探した。
連絡先を置いてきた市役所から連絡が入り医療チーム送迎のボランティアを紹介していただく。
仕事のない時は朝5時から夕方までボランティアをした。東京から援助に来てくれていた医療チームをハイエースに乗せ、車で1時間の沿岸まで走らせる。
薬を届けたり書類の整理、往診の送迎や、時には往診まで手伝わせていただいた。
被害状況がはっきりと見えてしまうボランティア、いつも胸が押しつぶされそうだった。初めは外科、次に内科、皮膚科、最後は精神科。
この流れの意味するところは、怪我(外科)から始まり、慣れない状況に置かれ続けた人々は体調を崩し(内科)、寝たきりの方々が床ずれを起こし始め(皮膚科)、長期にわたる避難所生活・集団生活、家族や友人を亡くした悲しみがのしかかってくる時期(精神科)。
多分他の医療チームも来ていただいたと思うけれど、私が運転するハイエースに乗ってもらったのはこの順に4つの専門医療チームだった。
車の運転は慣れていたけど大きな車は今までに運転したことがなく、最初は本当にドキドキしてた。
それでも現地に行く前に医療チームを不安にさせる訳にはいかないので、慣れてるかのように振舞っていた。でも本当に慎重に。
特に皮膚科の医療チームの方々には本当にお世話になった。本当は書類整理や薬を届けたり、往診の送迎の仕事しかなかったけれど、往診まで一緒にさせてもらった。ボランティアの後一緒にお酒も飲んだ。あなたはチームの一員だよってすごく可愛がっていただいた。個展に来てくれたこともあった。
徐々に医療チームがわざわざ東京から来てくれる必要がなくなった頃、このボランティアも仕事が減ってきた。
その後私は家の中の泥出しや、不要な木を処分したり、消しゴムハンコの作り方教室を子供向けに開いたり復興イベントの手伝い、いろんなことにチャレンジした。
体力はもともとあるし、女子の割に力もある。手先もまあまあ器用である。仕事があればなんでもやった。
その年の9月前、私は個展を機にボランティア活動を止めた。震災から夏まで、仕事、ボランティアの往復で完全に休みの日は1日もなかった。
止めたくはなかったけれど、絵の活動と仕事とボランティアは両立できなかった。また後で書くけれど、2013年にニューヨークでの個展がこの時決まっていて準備もしなければならなかった。
私にとってたくさんの出会いがあり別れがあり、いろんな経験をさせてもらい、本当に忘れられない1年だった。
毎年3月11日になるとこの2011年のことを思い出して『あんなに必死でありとあらゆることを頑張れたんだ、今だってなんでもできる』と、自分を叱咤する日にもなってる。
それでもボランティアを止めてしまったことは私の中で葛藤があって、このころから絵で復興を手伝えないか考えるようになった。
そうすれば絵も描けて復興に携わることができる。だいぶ長くなったけれど、もしできるのなら冒頭で書いたツリーハウスも絵を組み込んだものにしたいし、私のアートの宿を作るならやはり東北に作りたい。
多くの観光客に来てもらえたら雇用も増えて人が集まり、お金が回るようになり、みんなの活気が戻って、震災前よりももっと素敵な東北になるからだ。
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