絵を描く人のための独学画家のブログ

天国と地獄は本当にあるのか【無神論者の私が説く】【結構どうでもいい】【ヒマな人用】

2018/06/05
 
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ニューヨークで個展を開いたり、グラフィックデザインを勉強したり、日本をバイクで放浪したり、スクーターでニュージーランド一周したり、バスキング(路上パフォーマンス)するために現在オーストラリア・メルボルンに在住しているやりたい放題の画家エンドウシノブです。 独学で絵を描き続けてたくさんの経験をしているので海外のアートを絡めてシェアしています。

 

宗教勧誘かなんかかと思われそうなんだけども決してそうではない。

 

『この世界は神が創造されたのだ』と言い寄ってくるエホバの人に反撃し

どうやって人類は進化してきたか、この地球に生命体が生まれた訳とは』なんかをよくディスカッションする進化論信者なので、神様よりも生物学が好きな無神論者の私が天国と地獄について妄想の末に行き着いた結論を書く。

でも宗教を否定するつもりもない。困った時は神頼みもきっとするし、神社とかお寺も好きで行く。ただの妄想記事です。

 

 

 

天国と地獄。信じているだろうか。

 

宗教による死後の世界

 

宗教によって死後の世界は違う。

 

仏教やヒンドゥー教は輪廻転生と言って『死んだら新しいなんかに生まれ変わる』ので死後の世界はない。

キリスト教やイスラム教は神様のとこか地獄に行くらしい。

ユダヤ教は土に還ると言うもっとも現実的な教えらしい。

 

 

私自身スピリチュアル的なことは結構好きなので、生まれ変わりも信じるし死後の世界を全否定する訳でもない。

でも宗教に寄るっていい加減じゃない?

 

 

わたしの思う天国と地獄のイメージ

 

天国】とは生前の行いの善い者だけが行ける三食昼寝付き(雲のふわふわで寝られる特典)の素晴らしい場所である。いいなあ

 

そして【地獄】というのがその逆で生前の行いの悪さによって苦しみ方が違う場所で、鬼とか悪魔とかいてご飯抜き、睡眠なしのコテンパンにされるエゲツない場所である。

 

 

 

みんなはどっちに行きたいの?

ほとんどの人は天国に行きたいだろう。地獄に行きたいっていうクレイジー野郎もいるかもしれない。わたしは・・・

 

 

いや、天国も地獄も私の理想じゃない。

 

そう、私の死後は黒い犬と白い猫と一緒に暖炉のある家で本を読んだり、濃い緑の木々が生きている森でイーゼルにキャンバス立てて絵を描いて暮らすから天国も地獄も結構です。

 

 

そもそも誰が決めたのよ天国か地獄かなんて。確かにこの世には一旦死んでしまって天国を見たとか地獄があったとか言ってる人もいる。それはそれで否定しない。きっと見たと思うよその方々は。

 

でも思うにさ、みんなの頭ん中に【天国と地獄】【死んだらどっちか行く】とかが染み込んでるから行くのよ。

死後の世界はきっと自分のイメージの中をさまようんだとわたしは勝手に説く。

 

生前の自分の行いを考えた時に『良い人生だったなあ。地獄に行くほど悪いことしてないし、こりゃ天国いけちゃうなあ』とか思ってる人は例え周りに嫌われてるイヤな奴だったとしても天国行っちゃう。

反対に『他人に迷惑ばっかりかけた人生だったな。こりゃ天国なんていけないよ・・』とか思ってると思ってることが世界になる。

 

それなら自分が生きたい世界を作ればそこで生活できる と、わたしは踏んでいる。

なのでわたしは深い森の中で白い猫と黒い犬と一緒に住むことに昔から決めている。それこそ本当の【第二の人生】である。

 

 

 

わたしの黒犬と白猫

不思議なことにこれを決めたのが10年以上も前の話なんだけど、それを決めた数年後、愛すべき白い猫と黒い犬に出会ってる。

これは作った話じゃなく本当の話。7年前に家に黒い犬『ビー』がやってきた。

 

基本的にジッとしていないので写真を撮ることが難しい。(ブレてる

 

ちなみにうちのママが相談もなしに『ラムちゃん』って呼んでて、わたしは相談もなしに『ジョニーBグッド』って呼んでて、お互いの意見を足して割った結果『ビー』になった(ママの意見無視

 

 

白い猫は昔付き合ってた人が飼ってた猫で、捨て猫だったのを彼が拾ってきた。『コジロー』と言う名前ですごく可愛がっていたけれど去年事故で死んでしまった。

去年の11月からニュージーランドの旅をしようと決めた時、コジローの慰霊も兼ねてニュージー最北端ケープレインガへ行った。

そこは【魂が旅立つ場所】とされている場所。

 

写真にスプーンと爪、しっぽのおもちゃが写っているのがコジローの遺品。旅に出る前に譲ってもらった。これをずっと持って旅をしていた。

 

 

とまあわたしは死後一緒に暮らす子たちが既にいるのだ。

 

 

 

死ぬのが怖くなくなった日

 

24歳の誕生日を迎えた日、わたしは急に死ぬことに対しての恐怖心がなくなった。死にたいという意味ではなく、納得したという感覚。

わたしは【誕生日】や【年越し】など、節目節目で人生について考える癖がある。その年の反省や良かったことやこれからやること、人生とは、なんの目的で生きているのかなど、いろんなことを考える。(普段何も考えてない

 

 

24歳になった日、いつものようにそんなことを考えていた。

いつ死ぬのかという答えのないことをボーッと考えていた時にハッとした。

死ぬ時に死ぬんだ

 

なんか当たり前といえば当たり前のことを悟った。

 

この意味は、例えば自分の生きている中で使命があったとして、それを達成しなければ死なないと思った。

志半ばで死ぬ人もこの世の中にはたくさんいる。だけどそれでさえその人の使命をまっとうして死んだんだと。【志半ば】がその人の終点だったのだと。

 

 

だからわたしは自分のやりたいことをやるし、バイクに乗ることや旅をすることに対して世間の中には『危ない』という人もいるけれど(もちろん気をつける)『死ぬ時は死ぬ』と納得しているので例え旅の途中で死んだとしてもそれは自分の死ぬタイミングだったので受け入れられる。

もし事故が起きて死ぬに至らず体が不自由になったとしても、それは自分の運命だと受け入れられる。

 

もし旅を怖がって日本にいたとしても死なない保証はない。歩いてて事故に合うこともあるし、病気になるかもしれない。

どこにいたって『死ぬ時は死ぬ』のでわたしは今やりたいことをするのだ。

 

母親と電話してると『バイクなんて危ないよー』とか言われるので『死ぬ時は死ぬから大丈夫』とか訳のわからないことを言って安心させようとするが『それは大丈夫じゃない』と返される。

でも自分が何をしていようが関係ない。そしてそれよりも大切なのは【自分のやりたいことをやったか】【充実した人生だったか】である。

安心安全の長い人生を送ってにこやかに死ぬのと、やりたいことを全力でやって大笑いして短く死ぬ人生ならわたしは後者を選ぶ。変な意味でもなく既に遺書も書いてある。

深い森の中で二人の子たちと暮らす、第二の人生が訪れる日までわたしは楽しく精一杯生きるのだ。

 

 

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エンドウシノブ

ニューヨークで個展を開いたり、グラフィックデザインを勉強したり、日本をバイクで放浪したり、スクーターでニュージーランド一周したり、バスキング(路上パフォーマンス)するために現在オーストラリア・メルボルンに在住しているやりたい放題の画家エンドウシノブです。 独学で絵を描き続けてたくさんの経験をしているので海外のアートを絡めてシェアしています。
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ニューヨークで個展を開いたり、グラフィックデザインを勉強したり、日本をバイクで放浪したり、スクーターでニュージーランド一周したり、バスキング(路上パフォーマンス)するために現在オーストラリア・メルボルンに在住しているやりたい放題の画家エンドウシノブです。 独学で絵を描き続けてたくさんの経験をしているので海外のアートを絡めてシェアしています。

Comment

  1. より:

    おめでとうー!

    oshoとアミ小さな宇宙人見て見てよ。

    遠藤ちゃんは分かると思うんだよね!

    • エンドウシノブ より:

      悟氏

      ありがとうー!

      ちょっと調べてみたけど面白そう。本読んでみたいなあ

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